【10月1日の言葉】伊予の関ヶ原「苅屋畑(かりやばた)の戦い」嚴島神社と松山城

今からさかのぼること約400年前、慶長5(1600)年のことです。

伊予正木(まさき・現在の松前)城主、加藤嘉明(よしあき)が、関ヶ原の戦いに東軍の先鋒隊として出陣した留守を狙い、西軍の毛利・河野・村上の約2千人の連合軍が、興居島から三津浜に上陸しました。

村上水軍の村上元吉は、直ちに使者を加藤嘉明の正木城(まさきじょう)に派遣し、城の明け渡しを迫ります。

留守を守っていたのは、加藤嘉明の重臣・佃十成(つくだかずなり)以下のわずかな兵士でした。

十成は一計を案じ、城の周りの住民に金や物を与え、次のような宣伝をさせます。

「嘉明の政治は、領民に厳しい年貢の取り立てをして苦しめている。河野氏が再び政治を取り戻してくれることを心から願っている。今、正木城にいるのは、年寄りと病人ばかりである」

などと伝えたのです。

毛利勢はすっかり安心し、酒宴を開いて戦勝気分に浸っていました。

そこへ、佃十成(つくだかずなり)率いるわずか250騎が、夜間に火を放って陣地を急襲しました。油断して無防備だった毛利軍は大敗し、大勢の武将が苅屋畑で討ち死にしました。これが「苅屋畑の戦い」と呼ばれる戦いです。

この戦いの際、当嚴島神社も兵火にかかり、社殿が焼失したと伝えられています。

その後、卜占(ぼくせん)(※神様にお伺いを立てること)により現在の地を選び、社殿を造営しました。

松前城主だった加藤嘉明は、「関ヶ原の戦い」や地元での「苅屋畑の戦い」で西軍を撃破した功績により、徳川家康から松山城築城の許可を得て、松山城の築城に取りかかります。

ですから、現在の嚴島神社の社殿と松山城は、ほぼ同じ400年の歴史を持っていることになります。

そして加藤嘉明は初代松山城主となり、その際、城のある「勝山」に松の木が多く植えられていたことから「松山」と改めたと伝えられており、これが現在の「松山」の名の始まりとされています。

伊予の関ヶ原と言われる「苅屋畑の戦い」を通して、嚴島神社と松山城、また三津と松山を結ぶ、400年前から今へと続く不思議な歴史の縁(えにし)を感じながら、ご参拝ください。

無事を祈って「いってらっしゃい」

愛情をこめて「おかえりなさい」

今日も良い一日をお過ごしください。