明治時代(1868-1912)の三津

しばらく寒い日が続いていましたが、また気温が上がって下がるようです。

どうぞ体調管理にお気を付けください。

今回は明治時代の三津の画像を紹介します。

のどかな三津の内港風景。堀川より稲荷新地(いなりしんち)を見たところです。

明治30年(1897)頃

日清戦争(明治27-28年)が起きたのがこの頃。

三津浜の旧御船場の稲荷新地(いなりしんち)。左手前は思案橋。

明治26年(1893)に三津の東新地にあった十軒茶屋と呼ばれる遊郭がこの地に移り、大正から昭和初期が最も賑わったそう。

松山地方の遊郭はこの三津稲荷新地と道後松ケ枝の二か所であった。

藩政時代の御船場(松山藩の水軍基地)を維新後に埋め立てて出来た町である船場町。

今の住吉町2丁目11の辺りです。そこに稲荷新地があったとされる。

画像は明治40年頃です。

三津海道(みつかいどう)。

三津縄手道とも呼ばれた。

左手が堀川(今の宮前川)で、川の向こうが当厳島神社。

明治30年頃

今で言うと この辺りのもう少し手前からの撮影でしょうか。

約120年前と比べると全く違いますね。

三津浜の街並み。

右下の丸い建物が魚市場。

その下が恵美須神社(今とは場所が違う)。

左上の木があるところが当厳島神社と思われる。

明治40年頃

日露戦争(明治37-38年)が起こったのがこの頃。

三津浜の海岸。窪田回漕店下の海岸で、漱石が上陸した場所。

左手の藁屋根の家は待合所。

遠景は今も変わらぬ興居島(ごごしま)は伊予の小富士。

明治40年頃

三津浜海水浴場。お台場(砲台のある場所)海水浴場とも呼ばれた。

明治45年7月20日に浴場開きが行われたよう。

中央二階建ての建物が菊川亭。背後の山は弁天山と忽那山。

今のラムーの西側辺り。

アップが大変遅くなりましたが、資料提供頂きました中西様、誠にありがとうございました。